元々鈴木家は、紀州藤代で熊野三山の祠官を代々務めている家系でした。しかし源義経に従った結果奥州平泉より東国各地を敗走してしまいます。九郎の代に新宿周辺に住むようになったと言われています。
九郎は新宿周辺の開拓にあたり、自身の故郷の神でもある熊野三山より若一王子宮を祠ったそうです。その後鈴木家は家運がどんどん上昇してゆきます。最終的には資産家になり、1403年に熊野三山の十二所権現すべてを祀ることになったと言われています。
それ以降、過去には熊野十二所権現社と呼ばれ、幕府の手によって整備や修復が何度か行わたりもしました。1716年から1735年には徳川吉宗が参拝するようになるなど、神社の中の滝や池などの景色が江戸西郊の景勝地として賑わいを見せることもあったそうです。
明治維新後は櫛御気野大神・伊邪奈美大神を祭神とし、名前を熊野神社として現在までたくさんの人に愛されているのです。
今出てきた池と滝がありますが、この池と滝についてもご紹介しましょう。まずは池についてです。熊野神社にある十二社の池は、1606年に伊丹播磨守が田畑の用水溜として開発したものです。
現在では熊野神社の西側、十二社通りに建つ三省堂ビル・後楽園ビルの周辺にあったとされています。池の周辺には1716年から35年に渡りたくさんのお茶屋ができました。そして江戸時代には景勝地として非常ににぎわった土地にもなったのです。
明治時代以後は、花柳界として知られるようになった経緯もあります。最もにぎやかだった時は料亭・茶屋が約100軒、芸妓が約300名をいました。
またボート・屋形船・釣りなどの娯楽も頻繁に行われました。しかし1968年7月にこの十二社の池は埋め立てられることとなったのです。
十二社の滝はというと、記録や古老の話などから熊野神社にはいくつかの滝があったことが分かっています。特に十二社の大滝は、『江戸名所図会』『江戸砂子』などに記された滝で、高さ三丈・幅一丈と言い伝えられているのです。
この滝は1667年に神田上水の水量を補うという目的のために作られたものです。場所としては神田上水助水堀が、熊野神社の東端から落ちるところにできたものと言われています。池と同じく景勝地の一部として知られたものでもあり、様々な文学の中にこの滝は出てきています。
しかし滝の大半は、明治以後の工事などによりすべて埋め立てられたという事です。
熊野の象徴と言われているのは、八咫烏です。皆さん、八咫烏というと何かわからないかもしれませんね。サッカーの日本代表ユニフォームを思い出してみてください。黒いカラスがいませんか。あれが八咫烏です。
八咫烏は交通安全や幸福への道案内をしてくれる鳥として有名です。そんな八咫烏が祀られているので、幸福になりたいと願う人は是非一度熊野神社を訪れてみてください。幸せになれる道案内を八咫烏がしっかりとしてくれるかもしれませんよ。
八咫烏は絵画でしか出会うことができないので、訪れた際には必ず社務所を訪れてみてください。そこに八咫烏の写真や絵画が必ずあるので、それを拝見してあなたにも幸せの八咫烏からのご縁をいただけるように願ってみましょう。そうすることで、これから幸せへのルートをしっかりと作ってくれるかもしれませんよ。
⇒神社での参拝方法や過ごし方
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新宿にある熊野神社、ここは別名十二社熊野神社と言われています。この熊野神社は1394年から1428年に、鈴木九郎が作ったものと言われています。彼の故郷がある紀州の熊野三山から十二所権現を移動させてきたものであると伝えられます。
それ以外にも、地域の開拓にあたった渡辺興兵衛が1532年から69年に起こった熊野の乱によりこの地に流れ着き、熊野権現を祠ったとも考えられているのです。